報告・寄稿

令和元年以降:会員からの報告&寄稿

【方言いろいろ】
小池有二(19期/昭和43年卒)

小生が見聞きした方言文化を書きます。
わたしは、島根で生まれて、関西を経由して関東へ流れた経歴ですから、話しぶりが出雲弁と関西弁と関東弁の3つのミックスになっていて、これが素性不明に聞こえるようです。少し親しくなると「生まれはどこなの?」と突っ込まれることがあります。
出雲弁は「ズーズー弁」と言われますが、これはシがスになる訛りを指します。以前、ソフトバンクのCM(白戸家)に悪代官編 というのがありました。「スマネー」という謝り言葉が代官にとがめられる。最後に上戸彩が「と、言う悲しいお話が、スマネの語源です。」とまとめます。
何のことか分からない方は、YouTubeのアーカイブをご覧ください。
こちら

上戸彩はこのセリフのために出雲弁を練習したのでしょうね。ネイティブに近い「ス」の発音を聞かせます。
 出雲弁のもうひとつの訛りはヒがフになる訛りです。一畑電車に雲州平田という駅がありますが、これはウンスーフラタとなる。明治生まれの祖母はこれでした。このようにダブルで訛ると、他国の人にはかなり通じにくいと思われます。
 関東訛りで有名なのは、ヒがシになる訛りです(ヒとシの入れ替わりもある)。アサシシンブンとか、シビヤコウエンとか言いますね。東京人にこれが出ます。千葉も同じです。千葉弁にも独自の言葉があります。「したっけ」(そしたら)は、標準語で話す千葉県人の口に、ときどき出ました。手短に補足したい、あるいは結論を言いたいときなど、急ぐと出るのでしょう。
 もうひとつ、東京人の話しぶりの特徴に、「オチがない」ことがあげられます。会社の仲間に八丁堀生まれの男性がいて、こんなことを言うのです。「秋葉原のね、ホームに立ってると分かるんだよ」「え?何が?」「いやね、千葉の人は分かるんだよ」。これに、「あーそお?」と返して、続きの言葉を待つのですが、続きは出なくて、これで終わりなのです。関西でこういう話し方をするとしらけます。関西人は話題を振ったら、オチをつける、そういう文化ですから。
 京都人の訛りは、関東と逆で、シがヒになります。七条通は市内南部の重要な幹線道路で、その東端の東山七条という交差点には、東山七条(ヒガシヤマナナジョウ)というバス停があります。昔は市電の電停もありました。「七条」は正しくは、シチジョウなのですが、京都人はシをうまく言えなくて、ヒチジョウになる。市電や市バスでヒチジョウと言ったら乗客を混乱させるという心配から、「七条」はナナジョウと呼ぶのが、京都市交通局のグローバルセンスなのです。
 東山七条から西に行くと七条大橋のたもとに京阪電車の「七条駅」があって、これはシチジョウエキと読ませる。横のバス停「七条京阪前」はナナジョウケイハンマエと読ませる。というちょっとした珍風景になっています。
 出雲弁の話にもどります。島根の小学生の交通安全標語に、
「ばんげには 反射たすきが えとまっしゃい」というのがありました。これは秀作です。どこがいいかというと、一番目に「えとまっしゃい」という、ぎりぎり全国に通じそうな言葉選び。二番目はシやヒの音を使わないでまとめていることです。ほどよく緊張感があって、方言の味を出して、全国に通じる構成になっていました。

【わたしの城下町】
小池有二(19期/昭和43年卒)

雑文ですが、小生が訪れた城下町の記憶を書きます。
愛媛の松山は松江と似た雰囲気がある街でした。
元々、出雲松江藩と伊予松山藩は徳川の親藩で素性が似ています。明治維新では態度あいまいで長州からにらまれた歴史は同じだし、昭和になって観光プロモーションに力をいれて、温泉と乗物を観光に活かしたのも似ています。松江には堀川遊覧があって、松山には、ぼっちゃん列車があります。
松江には松平直政騎馬像が、松山には築城者・加藤嘉明騎馬像があって、こういう勇ましい像を置くのは元親藩の心意気でしょうか。旧領主を見るカルチャーはいろいろで、外様上杉の米沢には上杉謙信像と上杉鷹山像がありますが、どちらも地味な座像でした。
松山から南の宇和島には宇和島城があります。ここは本丸に登る坂道がたいへんな急坂でしかも巨岩がごろごろしていて登りに汗がでました。本丸にはポツンと天守閣があるだけです。宇和島の人はお城に興味が弱いようです。早々に城から降りて、鯛メシを食べに行こうぜ、というのが本音でした。
滋賀の湖東、長浜の駅前には秀吉と三成の出会いの像がありました。石田三成は敗軍の将ですから一般に歴史ではマイナーな扱いをされますが、地元では尊敬の念を込めてみられるようです。長浜は秀吉が築いた城下町でしたが、徳川時代にはそういう過去がうとんじられたらしく、城は廃止され、以降長浜は北国街道の宿場町として生き残ります。なので、残念ながら、秀吉・三成像は観光プロモーションの中で浮いた存在です。
長浜の南の彦根は徳川の譜代筆頭の井伊氏の城下で、いきなり駅前に井伊直政の勇ましい騎馬像が置かれていました。彦根城は掘割がきれいに残っていました。彦根東高校は藩校からはじまる歴史が古い学校で、お城の堀の内側にありました。本丸から降りて歩くと堀の外へ出る前に彦根東高の前を通るという道筋になります。これは、さすがにという驚きでした。松江北高もお城の近くですが、城の外に作った旧制松江中学にはじまります。
わたしが長浜、彦根を訪れたのは2016年の秋でした。この年は湖東3市で「MEET三成」と銘打った石田三成キャンペーンが張られていて、彦根もメンバーだから駅前に「MEET三成」の旗がなびいていました。主催団体は、「びわ湖・近江路観光圏活性化協議会」。こういうプロモーションは難しいですね。井伊氏は三成の居城だった佐和山をきらって彦根の平地に築城した、そういうツッコミをしてはいけない。
最後に、東京、江戸城です。旧江戸城の西側は皇室御在所として残り、北側と東側が北の丸公園、皇居東御苑として一般公開されています。東御苑の天守台跡から見る、広い芝生とその向こうのビル群の眺めは素晴らしいものです。ご存知の通り、東御苑には即位の儀の大嘗宮が建てられましたが、近いうちに取り壊されて、芝生に戻されるようです。見学を終えて丸の内に向かって大手門の高麗門を出たときの景色、やっぱり東京は城下町だなーという気分になります。
各地に歴史のある城下町があります。少し歴史を勉強して出かけると、目に見えるものの理解ができて、楽しめます。            

令和元年12月21日

リレーメッセージ第4回

羽田昭彦氏(北高27期)
松江観光協会
観光プロデューサー
「43年ぶりの故郷松江にて」

10月初旬、富山県に出張してきました。南砺市城端で開催された会議に出席するためです。いきなりですが皆さん、開催地のこの地名が読めますか? ぼくは読めませんでした。特に町名は、時間を置くとすぐに忘れてしまいます。
南砺市城端⇒なんとし じょうはな
これが正解です。
では、これはどうですか。
上乃木⇒あげのぎ
松江の人でこれを読めない人はいないでしょう。しかし先日、東京から友人が来て、「上乃木って何て読むの?」そう聞かれてびっくりしました。そうしてみると、松江の地名は難しい。
秋鹿 忌部 雑賀 母衣 千酌 朝酌 苧町 袖師 白潟 馬潟 大海崎 生馬 法吉 手角
苧町の「苧」とはイラクサ科の、背の高い雑草だとか。苧町は江戸時代の松江古地図にも登場する由緒ある町名ですから、宍道湖にほど近い地域には多く繁茂していたのでしょう。でも苧町(おまち)なんて誰が読めます?
旧八束郡の町名もそう(宍道 八束 美保関 恵曇 七類)。いやそもそも、松江の周辺主要都市(出雲 安来 米子 境港)だって、たとえば関東圏の人で全部正確に読める人はどれほどいるでしょうか。
松江名物「鼕行列」だってそう。ホ―ランエンヤの「渡御祭」「還御祭」もそう。松江の人は、それが読めて当然という顔をして、フリガナを振ろうなんて考えがありません。
そんな故郷松江に43年ぶりに戻り、4月から松江観光協会という職場で、観光プロデューサーなる仕事を始めました。
北堀の、築30年のライオンズマンションで賃貸生活をしています。(松江に三井三菱や東急など大手ディベロッパーのマンションは皆無です。ほとんどが大京穴吹!)
「宍道湖か松江城の見えるマンションで」という妻の希望を、最低限叶えることはできました。部屋から松江城の天守がかろうじて見えます。しかし夏になり、お城の周りの木々が成長すると、天守はほとんど隠れてしまい、妻は黙り込みました。
 松江に帰り、最初に驚いたことがあります。横断歩道の前でもじもじしていると、ほとんどの車が停車してくれるのです。都内ではありえないことなので、これは松江市民のやさしさの表れだと思うと誇らしく、都会の友人に宛てた転居のあいさつに、そのエピソードを添えました。
しばらくたったある日、観光協会の常務理事の車で移動したときにそんな話を振りました。すると、彼はちょっと小馬鹿にしたような表情で言い放ちます。
「(島根)県警の取り締まりが厳しいからですよ。横断歩道を人が渡ろうとしていたら、止まる。道交法にも書いてあります。その人に渡る意思があろうがなかろうが、とにかく止まる。(市役所前の)ここでそれを無視して走り去ろうとして捕まった市の職員は何人もいますよ」
 なんだ、松江のドライバーは親切というより、キップを切られるのを恐れていたのです。このエピソードを綴ったメールは、配信前にゴミ箱行きになりました。
 次に驚いたのは、「〇〇してもらうと喜びます」という表現を聞いたときです。ご承知のように、この場合、喜ぶのは自分です。つまりこの表現は、「〇〇してください」、そうすることで「私を喜ばせてくれ」とまあ、何ともおおらかな命令をしているわけです。昔、確かに聞いたことのある、とても懐かしい響きでした。ただそれを妙齢の女性が発していたので、不思議な感じがしたものです。
 出雲弁(松江弁)をしゃべる感覚を少しずつ取り戻したころ、いまは広島にいる母親の携帯に電話しました。母親は生粋の松江人なので、思い切って「どげだかね?」と切り出してみました。
「どげだかね」
「はあ~?」
「どげだかね」
「あんた、誰?」
「昭彦だがね」
「わしゃ騙されんよ」
電話は切れました。
そんな日常を過ごしています。(どんな日常なの?←自分のツッコミ)
で肝腎の、観光プロデューサーってどんな仕事か? それはまた別の機会に(♥)。 
2019年10月31日掲載

代表者名を入れてください

リレーメッセージ第3回

大森善郎氏(北高27期/理数科6期)
「囲碁のプロ・アマ戦に協賛し、日本の若者を応援」
~海外駐在の会社員から、起業して教育の世界へ~

私の父親は船乗りでした。船といっても、イランやイラクなど中東諸国と日本を行き来する石油タンカーです。従って海外航路から日本に帰国する父親に会うのは3ヶ月に一度のこと。母親に手をひかれ24時間かけて夜行列車で旅をして、横浜・新潟など石油コンビナートのある港に、父親に面会に行く生活でした。父親は海外から原色の美しい蝶々の標本をお土産に持って帰ったり、エキゾチックな外国の街の写真を見せてくれました。そして、いつしか私は(ボクも世界を見てみたい!)と夢見るようになりました。
 大学を卒業し、就職するとき、安定した大会社と海外駐在が嘱望される小さめの電機メーカーに受かりました。どうしても海外に行きたい気持ちが強かった私は、周囲の反対を押し切り、小さな会社を選択しました。会社員になっても語学学校に通うなど努力を積み重ね、アメリカ・ヨーロッパに5年間の駐在をし、世界中を駆け巡る夢をかなえることができました。30才で外資系のフィルムメーカーに転職し、責任ある仕事を与えられ、充実した日々を過ごしていました。
 しかしフィルム写真の時代は終わりを告げました。デジタル化に乗り遅れた会社からの早期退職のオファーを受け止めるしかありませんでした。これからの人生をどうするか、考えました。このまま新たな転職を繰り返すのか…それよりも(自分のやりたいことにチャレンジしてみたら)という心の囁きが消えませんでした。そして、自らの夢をつかんだ経験を活かし、今度は「若者の夢をかなえるお手伝いをしたい」と考え、教育の世界に転身したのは40才の時でした。
 最初はフランチャイズの進学塾として起業しました。子どもたちと触れ合うのは楽しい。でも、無理に「勉強をさせる」ようで、なんだか自分の性に合わない、と感じる月日。そんなある日、通信制高校から「サポート校」をしないかという誘いがありました。話を聞くと、様々な葛藤を抱えた生徒が最後に笑顔で卒業するのを見送る仕事。これこそ自分の天職!と感じました。
 株式会社ワイズアカデミーとして起業しました。世界で活躍する若者を育てたい、若者(Youth)に夢を与えたい、と起業した善郎(Yoshiro)の教育施設、それが Y’s Academy(ワイズアカデミー)です。通信制高校で学ぶ生徒は、プロスポーツや芸能界と学業を両立したり、それぞれの悩みや夢に向き合って精一杯に生きています。この若者たちに「あたたかい居場所」を提供し「自立心と思いやり」を育んでいます。

ー 新たな夢、囲碁の世界でも若者を育てる ー

 囲碁の日本棋院に協賛し、2019年からプロ・アマの十代の若者が競う棋戦「ワイズアカデミー杯」を開催しています。

こちら

⬆️ ワイズアカデミー杯の公式サイトを是非ご覧ください。
以下は私の挨拶文となります。

< ご挨拶 >

 囲碁界では、かつて日本が、世界をリードする中心的存在でした。それが今や海外の後塵を拝しています。大森は、かつて日本が世界の中心だったエレクトロニクスのビジネスに20年も関わりました。囲碁もエレクトロニクスも課題は共通です。「若者を育てる」こと無くして、将来の発展はありません。

 日本棋院では小学生までのプロ採用制度を新設し、仲邑菫初段が史上最年少の10才でプロ入りし、初勝利は新聞の1面トップ記事になるほど注目を集めています。囲碁ブーム復活の機運が高まった今こそ、世界トップ棋士を目指す子どもたちをサポートする絶好の機会です。

 ワイズアカデミー杯という新たな棋戦に協賛させていただくことは「世界で活躍する若者を育てる」共通の理念の実現であり、至上の喜びです。サッカーのワールドカップで、日本の選手・応援団は「きれいに清掃する」ことで世界から注目されました。囲碁の世界においてこそ、日本がマナーも強さも世界トップに輝く、その日が来ることをワクワクしながら期待し、応援しています。
(2019年9月30日)

     

リレーメッセージ第2回

西尾康英氏(北高27期/理数科6期)
理数科から医学部に進みましたが、理系より文系の科目のほうが好きでした。当時の北高には兼折校長の下、国語、英語、社会科に良い先生がおられたこともあり、選択で世界史のクラスを取りましたが友人からノートを借りて日本史を、仏語や独語をNHKラジオで独学するなど、受験勉強には関係ない科目ばかり勉強していました。父方祖母の実家が書店を営む天神町の漢学者であったDNAにもよるのでしょう。 医学部に進み医師になってからも、生老病死の背景にある目に見えない運命を操る力を知るべく、真言宗系の寺で研鑽し10年がかりで教師資格を取得しました。そんなわけでアマチュアの歴史家や市井の僧職よりは、正しい神仏の知識があると自認しています。
 真言密教の強みは、曼荼羅に象徴される神仏のランク付けと性格を明確に教えてくれることです。曼荼羅界の一番外側に配置されているのが、人間界に最も近い天部の神々で、全てを悟り人間を超越した仏様と違い、嫉妬を抱き時には天罰も与える、どこか人間的な要素を持った方々です。ですからお稲荷様や弁天様にはお供えを欠かさず、神楽奉納などを通じてたえず感謝の念を示さないとご加護は得られません。松江城の守護神、城山稲荷の神様が寂しがっていたので出雲郷神社への里帰り接待をしたことが、ほうらんえんやの起源とされていますが、もうお一方、別の神様がその陰にいることにお気づきの人はいますか?
 松江から出雲郷への道中、当時の幹線路大橋川を下る途中で嵐に巻き込まれ、お稲荷様があやうく沈没しそうになったのを沿線の住民が総出で救助したことが、ご神体を囲む船団パレードの由来ですが、祭りのメインエベント、櫂伝馬船の踊りは誰に見てもらうためのパフォーマンスだと思いますか? 河岸を埋め尽くす観客向けではないことは想像がつきますが、神楽を奉納する対象は城山稲荷のご神体でなく大橋川の神様ではないでしょうか。天部の神様は、稲荷様に代表される地界の神様とともに、天界の神様の二系統があり、後者は弁天様に代表される川の守護神でもあります。弁財尊天は仏教と共に渡来したインダス川の神をルーツとする外国招来の神ですが、日本古来の川の神々も大勢いらっしゃいます。天と地の護法の神の共同のご加護があって初めて、豊かな実りと交通の安全が保障されるのです。城山稲荷だけでなく自分のことも忘れるな、と大橋川の神様の嫉妬の怒りが水難事故を起こしたことを当時の人々は認識し、二回目の里帰り神幸祭からは道中の無事故を願って大掛かりな水上神楽を演出したのだと思います。
 それでは大橋川の神様のご神体と本籍はどこにあるのでしょうか。おそらく中海、大橋川、宍道湖の沿岸に位置する、美保関神社や松江の賣布神社など随所に祀られている複数の神々で、ルーツをたどると上流の斐伊川に行きつきます。その源流がおわかりですか?そうです、出雲人なら誰でもご存知の八岐大蛇です。素戔嗚尊の八岐大蛇退治伝説は、ヤマトの武力と技術力による出雲支配と斐伊川治水事業を神話化したものであるとともに、八岐大蛇に象徴される出雲古来の神からヤマト天皇家の守護神、伊勢神宮祭神への改宗神話であるともされています。青銅器文明化から鉄器文明へ、部族社会から中央集権社会へと時代が進化する中で、出雲は日本の首都から今や日本のチベットとも揶揄される鄙地になってしまいましたが、それは出雲の守護神を冷遇した祟りではないでしょうか。
 八岐大蛇の斐伊川は氾濫を繰り返した荒川でもありますが、国引き神話にたとえられた、米どころの斐川平野を造成し、堀尾吉晴公による松江橋北市街地造成の土木事業にも貢献し、多大な恵みを出雲にもたらした繁栄の源泉であり、その御恩をけっして忘れてはなりません。ヤマトは出雲から国譲りにより日本の支配者になりましたが、出雲は武力では征服できても、守護神の霊力では抗い難い脅威であったのでしょう。大国主命の霊を出雲大社に封じ込め、黄泉の国を穢れた世界と忌避して交流を斜断し、守護神を悪役にみたてて出雲の弱体化をはかったのが、ヤマト創作の記紀神話に隠された真実ではないかと推察します。
 日本海軍のフラグシップ、国を守る最大級の軍艦が戦艦大和から護衛艦いずもに変わった今日、時代はどこか出雲の復活を暗示していると感じませんか。今でも石見地方では、幼稚園で神楽を教えているそうです。テレビのインタビューで子供たちに、お神楽の中で何が好き、と聞いたら元気よく「やまたのおろち」と答えていました。これは単なる文化遺産の保護、継承でなく地元守護神の復興です。昨年の西日本豪雨でも幸、島根県には大きな被害が出なかったのも、山陽地方と違って人口過疎で宅地の造成が行われていないことだけではなく、天地の神々のご加護の賜物あることを認識すべきでしょう。ほうらんえんやは10年に1度だけ、などと言わず毎年、斐伊川上流の八岐大蛇を祀る神社から美保関神社に至る斐伊川水系の神社総出で、盛大な水神サミットを企画してみてはいかがでしょうか。
(2019年8月22日)

     

リレーメッセージ第1回

東京双松会の皆さん、こんにちは。27期、理数科6期卒業の毛利信二です。今年から東京双松会副会長を仰せつかりました、宜しくお願い申し上げます。
昨年の総会でお目にかかった小山校長(当時)からの御要請により北高生の前で話をすることとなり、今年3月20日ほぼ卒業以来となる母校訪問が実現しました。今や東高、南高と3校併せても一学年20クラスにしかならないとの校長のお話に驚いたものの、「北高生に期待する」と題した二時間近い私の話を、体育館の固い床に座った姿勢で生徒達は最後まで熱心に聴いてくれました。
昨年国土交通事務次官を退任した私には、37年間の国家公務員生活で経験したこと、感じたことをありのままに画面と言葉にする以外術はない訳ですが、国会との立ち位置、法律策定作業などやや特殊な霞ヶ関の世界をどう伝えるか、随分思い悩んで準備をしました。例えば、「国民の声を聴く」と政治家がよく使いますが、国家公務員もそれは大事です、でも世論って何だろう?乃木坂46というグループの「インフルエンサー」というヒット曲の中に「気配以上会話未満」というフレーズが出てくる、「・・恋はいつも余所余所しい」と続くのだが、世論とは「気配以上会話未満」のものと言えるかも知れない、それくらい分かりにくく、掴みにくいもの、だから、いつも気をつけて本当にそれが国民の声なのか尋ねる姿勢が大事です、とか、平成最悪の水災害となった昨年7月の西日本豪雨災害にどう対応したのか、当時の私の手帳を画面に映し出しながら官邸との緊張したやりとりを語ったり、と出来るだけ身近なところからお話ししたことも奏功したのでしょうか、講演前の心配を吹き飛ばすような嬉しい反応を、後で送っていただいた生徒達の感想文で知ることとなりました。
その一部は北高HPでも見ることができます。(http://www.matsuekita.ed.jp/files/20190327131842.pdf
今回の講演は、私の人生を振り返る良い機会にもなりましたし、講演を終えて改めてしみじみ思ったのは、これからも「北高生に期待する」ということでした。
(2019年7月23日)   

     

【会員からの報告】

「東京双松会忘年会」終了報告
12月11日各々忘年会の合間を縫って14名で、美味しいお食事とともに令和元年を振り返りました。
会場は、東京双松会事務局でもあります、東京ブレジュ倶楽部青山サロンです。↓
こちら

サロンオーナーの田部長右衛門さん(平成10年/北高49期)も参加されました。先日、松江商工会議所会頭/島根県商工会議所連合会会頭に就任されたばかりです。松江&島根の未来への熱い想いを語ってくださいました。

「北高第23期同窓会報告」
報告:富岡 透 (北高23期/S47年卒)
令和元年7月6日(土)に松江玉造温泉ホテル松の湯で開催されました。
総勢82名の参加があり遠くは福島、東京、大阪、広島などからの参加もあり大変な盛況でした。
ただ、65も過ぎると、誰かが癌だ、誰かが入院した、等の病気話題で盛り上がってしまいます。
そうはいっても元気な82名は一次会は大広間の宴会で各ルームそれぞれの参加者の近況紹介や遠来の友人との歓談等で盛り上がり、校歌斉唱「山脈浮かびて、半島みどりに〜」で中締め。
続いて二次会に突入! その後年甲斐もなく飲みすぎて盛り上がり過ぎてあまり覚えてませんが、各自の部屋に戻ってからの三次会まで日付けが変わるまで続き…… 目が覚めたらなんとか布団の中でした。
私はどうも寝る前には温泉にもはいったようですが、危ないことです。

この日は青源の部としてゴルフ大会も開催され多数の参加者があったようです。私は当日東京より駆けつけた関係で不参加でした。
写真は以下のアドレスにアクセスしてみてください。
http://img.gg/X0yKNm7
パスワード:kitako2019
~★~★~★~★~★~★~★~★~★~★~★~★

報告:2019年第1回幹事会
2019年1月25日
 第1回 東京双松会 幹事会&新年会を行いました。
場所は、品川プリンスホテル メインタワー39階の個室。東京の夜の絶景を見渡せるお部屋で、料理もたいへん美味しく、お酒も進んだようでした。
品川駅前の会場はとても便利で、千葉からも神奈川からもアクセスよく好評でした。
平成卒の4名を入れて、総勢20名のご参加を頂き大人の雰囲気でのひと時を楽しみました。
*幹事会では 毛利信二氏(S51年卒)新副会長が承認されました。

代表者名を入れてください

各期同窓会報告        「北高31期 同窓会」
 報告 📝 森 崇徳

2019年7月28日、東京ブレジュ倶楽部青山サロンで、北高31期(S55年卒)の有志25名で同窓会を行いました。この10年ほど在京メンバー中心に年に1回集まっており、近況を報告するなどして楽しいひと時を過ごしています。年代的に最近は子供が結婚した、孫ができたといった話題や健康に関する話題などが増えてきました。会場の東京ブレジュ倶楽部は同期の糸川さんが専務を務めておられ、美味しい料理と飲み物を堪能させてもらいました。
出席者の大半は首都圏在住なのですが、近年は会の存在を知って松江や関西エリアから参加してくれるメンバーもあり、懐かしく和やかな集いとなっています。また昨年は海外勤務中のメンバーの一時帰国と会の開催日がたまたま重なってサプライズゲストを迎えることができました。現在メールアドレスを把握している31期の同級生は50名程ですが、この記事をご覧になって次回以降ご参加いただける方があればぜひご連絡いただければと思います。

第10回東京双松会ゴルフコンペ   2019年10月26日


参加者8名。いつも当コンペは雲一つない最高の秋晴れに恵まれ、素晴らしい日でした。
表彰式、パーティーも大変和やかに、楽しい一日を過ごしました。
 結果は、今回も井原勝美会長(昭和44年卒)が優勝。手抜き無しの本気の部活動の様相ですが、ゴルフ好きの方々は勿論、初心者の方もお優しい先輩方の指導付きで、とても楽しい会です。
高校時代の部活を思い出して是非ご参加下さい!

東京双松会ゴルフ部 幹事 高根護康(S55年卒)

随筆・寄稿(平成迄の寄稿は過去のHPへ移動しました)